2022年5月1日(日)礼拝(聖書箇所:使徒7:51-60)
聖書より:
反対者らの手によって捕らえられ、最高法院に引き出されたステパノは、旧約聖書の御言葉からキリストを証しすると同時に、彼らの罪を指摘しました。
すると、傍聴していた人々が歯ぎしりをし始め、ついにステパノを町の外に追い出し、石打ちの刑に処してしまうのでした。
もちろん、人々は自らをキリストの救いの手から退け、裁きに下りたかったわけではないはずです。
むしろ、キリストの到来を待ちわびていたはずです。
しかし、ステパノの証を受け入れることも、理解することもできなかったのです。
一方、ステパノは感情的になっている人々とは違い、聖霊に満たされて天を仰ぎ、神の右に立っておられるキリストに目を留めていました。
そして、自分を石打ちにする人々に、その罪が負わされることのないよう、とりなし、祈りながら世を去ったのでした。
私たちもステパノを石打ちにした人々と同じ罪人です。
自分の正論に立ってしまっては、人を石打ちにするほどの独善性に溺れるでしょう。
しかし、その一方で、ステパノと同じ神の聖霊を授かっています。
私たちもキリストを見上げて歩むことが大切です。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2)
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