召しの希望に立て

十字架 礼拝

2024年2月18日(日)礼拝(聖書箇所:使徒22:17〜27)

聖書:
紀元57年頃、第三次伝道旅行からエルサレムに戻ったパウロは、人々の誤解によって捕らえられました。
しかし、パウロがローマ市民であることを知った千人隊長は、パウロに民衆に語る機会を与えました。

パウロはヘブライ語で民衆に語りました。
かつての自分はイエス・キリストに激しく反対する人だった。
それがどうして信じてキリストの使徒となり、異邦人にまで福音を伝えるようになったのか。
それはイエス・キリストの救いに召されたから。
ところが、人々はこの証を聞いて、「こんな男は殺してしまえ」と言って大騒ぎしたのです。
救いに召されているかいないかでは、証に対する応答は大きく違うのです。
私たちも反対されるとき、それはキリストに召されていることの印でもあり、希望があります。

一方、千人隊長は騒ぎを見て、パウロを鞭打って事情を探ろうとしました。
騒ぎに翻弄され、パウロがローマ市民であることを失念したのでしょう。
パウロは誰一人として彼の証を聞き入れなかったのに、冷静にこの問題に対処したのでした。
私たちこそ、キリストに召されている揺るぎない希望に立つことが大切です。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)

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