信仰の矢筒と主の矢

弓矢の束 礼拝

2024年1月7日(日)礼拝(聖書箇所:詩篇127:1〜5)

聖書:
旧約聖書詩篇は、賛美の歌として神殿礼拝で用いられていた御言葉です。
127篇はソロモン王を通して語られたものとされ、礼拝者たちがエルサレム神殿の階段を、一段登るたびに歌った賛美の御言葉の一つです。

神様の目から見た私たちの営みには、家を建てるように将来の希望を抱く姿もあれば、日々の営みを様々なリスクから守り、見張る姿もあります。
また、朝早く起きて夜遅くまで働き、労苦の果てにようやく食事にありつく日もあるものです。
しかし、その全ての営みも、神様が御心に留め、導き与えてくださらなければ、むなしい結果に至るしかありません。

一方、神様は、胎の実をお与えになるように、私たちの全てにいのちをお与えくださった方。
それは私たちではなく、神様がそれを御心とされたことによるものです。
その神様が、私たちに勇士のように確実な勝利を得るものとなるための、ビジョンを持って働きかけてくださるのです。
家を建てるにしても、守るにしても、今日の苦労を負うにしても、その全てに神様が御心を留めてくださってこそ、勝利があります。
大切なことは信仰の矢筒に、神様の御心という主の矢を満たすことなのです。

幸いなことよ 矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは 門で敵と論じるとき 恥をみることがない。(詩篇127:5)

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