裏切る罪と過ぎ越しの主

2021年7月18日(日)礼拝(聖書箇所:マタイ26:17-30)

聖書より:

イエス様は過ぎ越しの祭りを都で迎えようと、弟子たちをエルサレムのある人のもとへ遣わされます。
主はあらかじめ、そこで過ぎ越しの食事をすることを御心としておられたようで、弟子たちは御言葉通りに食卓の準備をすることができたのです。

食卓に着いて後、イエス様は一人が裏切ること、ご自身が御言葉の通り世を去られることをお話になったのです。
弟子といえども罪を犯す可能性があるのです。
さらにイエス様は、ユダの裏切りがいかに重大であるかを、御言葉をもって彼にお示しになりました。
明らかに罪に至ることを示されたのに、後にユダは重大な罪を犯したことに気づき、良心の呵責に悩みます。

人は罪を警告する神の御言葉を軽視し、ことを犯してから罪の大きさに気づくほど、罪に対する警戒心が乏しいのです。

イエス様は過ぎ越しの食事で裂かれるパンと、贖いの血を模したブドウ酒を指して、それがご自身のことであるとお示しになり、十字架へと向かわれたのです。
主の御心は裁くことではなく贖うこと。
今日、過ぎ越しのパンと杯は主の晩餐式として、キリストの弟子たる今の私たちの心を再びキリストへと立ち返らせているのです。

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Iコリント11:25)

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