2025年9月28日(日)礼拝(聖書:マルコ14:32〜42)
聖書から:
紀元30年頃、イエス様はエルサレムで弟子たちとともに過越の祭りの食事をされ、その後ゲツセマネという場所に来られました。
そこでイエス様は悶え苦しみ、死ぬほどの悲しみを抱きながら祈られたのです。
なぜなら、十字架の時が目前に迫っていたからです。
神の子であるイエス・キリストが父なる神に対する罪の罰をお受けになるということは、子なる神は父なる神から呪われたものとして死ぬことであって、十字架上で父と子の関係が引き裂かれたということです。
この激しい悲しみのなかでイエス様は、弟子たちに共に祈るよう願ったのです。
しかし、弟子たちは信仰こそ熱くても、その肉の弱さから眠ってしまうのです。
イエス様も二度、三度と弟子たちに声をおかけになりましたが、やはり弟子たちは眠気に負けてしまうのでした。
そんな弟子たちを見ながらイエス様は父なる神の御心が成るよう祈り続け、ついにその時を迎えました。
そして弟子たちに「もう十分です」とおっしゃったのです。
イエス様は私たちの弱さを咎める方ではありません。
イエス様は、弱くとも信仰の燃える弟子たちの心を見て、私たちのために十字架へと向かってくださったのです。
私たちはこの方の名を通し、神の御心が成るよう祈っているのです。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)



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